朝日神明社〓将門、再び
2015-06-01



将門は分もわきまえず
掟を忘れ朝廷に反逆した
その科は重く
帝みづからが天誅を下す

国の公式な行政文書で
正式に反逆者として位置づけられた平将門
事の始まりは
単なる一族の内紛に過ぎなかった

父親が早世したのに付け込まれ
伯父達に不当に所領を奪われたりと
非道い扱いを受けたらしい

将門は強かった
待ち伏せされ戦いを挑まれた将門は
彼らを撃退し
その勢いで伯父の国香の本拠地を
国香もろとも焼き払ってしまう

国香の息子貞盛は
戦いを抜け出し京に上り
しゃあしゃあと
太政官に将門の所業を訴える
いい子ちゃんぶってすぐに先生にチクる
あの感じだな

朝日神明社は平貞盛が創建したと伝わる
中央で出世を狙ういい子ちゃん貞盛は
これはいいネタだと
有る事無い事吹聴し
ポジション向上を図ったのかもしれない
浪速の地に神社を建てましょうと
言ったかどうかまでは定かではないが

熊野街道の王子社であったとも伝わる
上町台地聖地ラインの
重要ポイントであった事は間違いない
そこにおける将門の伝承を
人々はどう受け止めたのだろうか

時代は下って秀吉の時代
秀吉は大阪城築城に当たって
暴力的に神社を移動させる
だがこの神明社は動かさなかった
それどころか篤く崇敬したとも伝わる
秀吉の朝廷へのアプローチを考えると
朝敵を調伏した神社ですよと
媚を売る材料だったのかもしれない

明治40年
神明社は他の神社と合祀され
場所も遠く移された
社運傾き維持困難という理由だが
今一つよくわからない
奇しくも同年
東京では渋沢栄一と織田完之による
将門復権が盛んとなっていた
大阪商人達が中央経済界へおもねいた
というのは考えすぎだろうか

誰にへつらうこともない将門の生き方
だけど大阪の商人文化には
まるで必要とされなかったようだ

突然に革新的なリーダーが現れて
必死で問題解決を叫んでも
彼らにはその問題が理解できないのだ
そもそもの前提を覆そうなんていう気質は
この商都には存在しないのかもしれない
そして今やそれは決して
この街に限ったことではない

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朝日神明社
大阪市此花区春日出中1-6-21

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朝日神明社跡
大阪市中央区神崎町2-30南大江公園

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[倭姫命]
[大阪]

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